アサヤ株式会社 廣野一誠さん
漁業にはまだまだ可能性がある。
創業172年の漁具屋としての誇り
廣野一誠さん
38歳
アサヤ株式会社
宮城県気仙沼市出身、東京から移住(Uターン)、移住8年目
02. 「いま帰るしかない」と決めた2014年
まずはお名前、年齢、御所属を教えてください。
廣野一誠と申します。1983年生まれの38歳です。
アサヤ株式会社という漁業資材の販売会社で、三陸沿岸、宮城県、岩手県の漁師さんを相手に仕事をしています。創業が1850年、172年目の会社で、私が昨年(2021年)11月に父から社長を引き継いで、7代目の社長になります。
廣野さんは高校までは気仙沼で過ごされていたんですか?
いえ、小学校は気仙沼小学校で、中学からもう外に出ています。
中学と高校が大阪のPL学園で、野球はやっていなかったのですが、進学系のクラスで6年間大阪で過ごし、大学進学で東京へ出ました。
大学進学後はどのようなキャリアだったのでしょうか。
卒業後も東京で働いていて、2社経験しました。
1社目が『日本IBM』という会社のコンサルティング部門にいて、お客さんの業務改善をしたり、会計・物流システムを導入したり、システムを通じて、ビジネスを良くするお手伝いを6年ほどやっていました。
そのあと、先輩が製造業向けに広告代理業や営業コンサルティングをする会社を企業したので、その手伝いを4年ほど。Webサイトを作ったり、カタログを作ったり、東京ビッグサイトのような展示会場でイベント運営をしたりしていました。
気仙沼に帰ってきたのはいつ頃でしたか?
2014年12月に帰ってきたので、いま8年目になります。
もともと「いつかは帰ってこよう」と思っていて、東京で仕事をして、色々な能力を身につけて自信がついてから帰ろうと思っていました。ですが、「営業能力も付けなきゃ」「会計勉強しなきゃ」「人心掌握もできない」など、できないことを見つけていくとキリがなくて、なかなか踏ん切りが付かなかったんです。
ただ、東日本大震災があって2年目、2013年の夏に帰ってきた時に、南町の瓦礫が撤去されて更地になった様子を見て「本当になにも無くなっちゃった」と。故郷が被災したから何か役に立ちたい気持ちはあったけど、「この瓦礫をどう撤去していくんだろう?」と途方にくれる時期に何も出来なかったなと。いつか役に立ちたいと思っていても、そのいつかは本当に来るのか、いま帰ることを決めるしかない、と思い、よく分からなくても家業に飛び込んでみよう、と腹が決まりました。
03. 嘉永3年創業、お客様に寄り添い続けて172年
改めてアサヤの事業内容や、地域のなかでの役割を教えてください。
アサヤは漁業資材の販売をしている会社です。創業が1850年、江戸時代末期の嘉永3年です。
当時は『廣野屋』と名乗っていて、麻を取り扱っていました。漁師さんは当時、小さな和船、手作りの木の船での釣りが中心で、奥さんが麻を結って釣り糸を作り、旦那さんが釣り針を付けて漁をするスタイル。その麻が近辺では手に入らなかったので、内陸部や関東などへ馬車で買い付けに行き、漁師さんたちに売っていたと。お客さんは『氷屋』『箱屋』『油屋』など、一業者のことを会社名では呼ばなくて、だんだんと『廣野屋』も『麻屋』と呼ばれるようになり、そのまま『アサヤ』と名乗るようになったそうです。他にも様々な資材を扱ってきましたが、お客さんの「ああいうのないか、こういうのないか」という要望に対して様々な伝手をたどって探してご提案する、という仕事のやり方は、今もまったく変わっていません。
もちろん技術の進歩はあって、現在麻は使われず、ロープや網は石油製の化学繊維になっています。船に積む油圧の漁労機械や、浜で使う養殖用の機械などで機械化が進んだり、魚を入れる万丈カゴも竹で編んでいたものがプラスチック製になったりしますが、お客さんが求めるもの、困りごとを解決できるものを探してきてお届けするのは同じです。
いま従業員の方は何名いらっしゃるんですか?
子会社1社、それを合わせると約90名です。拠点が気仙沼、石巻、釜石、宮古、子会社が大船渡にあるんですけど、地元の方がほとんどです。高校を出て入社して、ずっと長く勤める方が多いですね。
ただ90年代後半のマグロ船減船で水産業界は長く不景気で、アサヤも御多分に洩れず余裕がなくて、しばらく採用ができませんでした。震災後は壊れた物、流された物を直さなきゃいけない特需の時期があったんですが、社員さんもだいぶベテランになり、40代後半〜50代、60代という構成になっていました。
私が戻ってきたのが2014年なんですが、「若い人を採用しないと次の世代に技術も伝えられないよね」という話になり、2015〜16年頃から若手の採用に力を入れ出しました。全然縁もゆかりもないところから気仙沼に来る人、地元出身で高校から入社する人、親戚が近隣地域だったり、大学が東北だったりと縁があって入社する人など様々ですが、基本的には地元出身者中心で、UIJターンの若い子も増えてきた感じです。
UIJターンや若い方が会社に入ったことで、何か変化はありましたか?
「気仙沼は県外船が入船してくることから、おもてなし文化があって外に開けた街だよ」っていう話があると思うんですけど、実際そういう気質はアサヤの人たちにもあって、新しい人が入社してきたら「どこから来たの?」とか「むかし部活何やってたの?」とか、自然と外から来た人に興味を持って交流することはあります。それを通して、「これって外の人から見たら当たり前じゃないんだね」という話に社内でなり、自分達が当たり前と思っていたことが意外と面白く見えるという気付きはありました。
あとは、会社がもともとあった魚市場前からいまの場所(市内松川前)に移ったことであまり目立たなくなっていたので、会社を広報していく観点から観光にも関わるようになりました。観光では漁業資材や道具の使い方を見せる産業観光的なツアーをしているんですけど、そこでも外の方が見てた時に「すごい職人の技ですね」「いや、日常的に当たり前にやってるんだけど」というやり取りもあって。僕自身も外から来て面白いと思いったし、外の方が見ても面白いんだなと思って、『やりがい』とまでは言えないですけど、当たり前にやっていたことが「意外とすごいことやってるんだな俺たち」と思える、そんな感覚に結びついていると思います。
11月に社長に就任されたということですが、経営者として意識されていること、チャレンジしていることはありますか?
もともと持っているアサヤの良さを大事にしながら、自分はどういう貢献ができるのかをよく考えています。アサヤの社員は漁業者と長くお付き合いをしていて漁業には本当に詳しいし、人とのコミュニケーションもすごく上手だし、色んな技術も持っています。そこを自分が見習いから始めても、皆さんの劣化版にしかならないなと。外での経験が活かせることはきっと別にあるだろうと思っています。
ひとつは、外にいた人間だからこそ、会社のことを外の人が知りたい視点でお話ができるので、事業の方向性をちゃんと発信していくこと。それが何につながるかというと、求職者や外部有識者とやり取りをする時に、地元の感覚だけではなくて客観的に業態・強み・弱みなどの話ができる。そうしながら、外の方に力を貸していただく関係性づくりは、自分のやるべきことかなと思っています。
もうひとつは、自分がもともと持っていなかったけど経営者としてやるべきこと、その一番は『意思決定』だと思います。お客さんの事情や現場のやりやすさが深く分かっていると、メリット・デメリットが見え過ぎて決められないことが出てくる。そこで「結果の責任は経営者が取るから、考えたやり方でやってみなさい」と背中を押してあげること。自分より現場を分かっている社員さんたちに、上からものを言うのではなく、経営者の取るべき責任をきっちり取って、のびのび自由にやってもらえるかどうか。節約・節制して、今のやり方を守るのも大事だけど、漁業を取り巻く環境が変わっていくなかでは新しいチャレンジをしなきゃいけないので、新しい発想を促すことが大事だと思います。
また、採用環境もがらっと変わってきていて、昔であれば転職は大それたことで、就職したら一生勤め上げるのが当然だった。ところが、今はテレビCMでも毎日のように転職サイトのCMが流れてきて、スマホにもすぐ求人の広告が出てきて、はたと「この仕事でいいのかな?」「本当に俺このままでいいのかな?」って不安に駆られやすい時代。「この会社で順調に成長できているな」「将来なんとかなりそうだな」という感覚を持てるように、働き甲斐や働きやすさを高める工夫が必要だと思います。
例えば、去年12月から移住者向けの住宅手当、補助を付けはじめました。実家から出て賃貸で暮らしている人とのバランスは悩みましたが、わざわざ縁もゆかりもないところからアサヤを選んで来てくれたわけで。初めは給与面でサポートしてもらいながら、それ以上に頑張って成長して、立派に一人前になったら周りや会社に恩返ししていく、という階段を昇ってくれたらなと。
こういった制度を整えることでいきいきと仕事をしてくれれば、最終的には会社に帰ってくると思うんですよね。自分自身も東京でサラリーマンをやっていたときに、好きだからやっているんだと思えた方が絶対いい仕事ができると思っていたし、アサヤも「俺がこの漁業者さんを支えるんだ」「やりがいを持って楽しく仕事をしているんだ」という人が多いので、良い社風を守りながら環境の変化にどう合わせていくのか、自分なりに模索していきたいなと思います。
アサヤとして従業員の方に求めていることは何でしょうか?
相手に喜んでもらえることが嬉しい、という感覚ですね。アサヤは、メーカーさんが造っている物を仕入れて、それに付帯する作業をする会社です。これはうちにしか出来ません、というオンリーワンのことは少なくて、人と人との交わりがアサヤの根幹だと思っています。人の気持ちをよく考えて動いて、喜んでもらえた、役に立てることが嬉しいなと思える、そんな人にぜひ入って来てほしいと思います。
04.
ぶれない理念
「漁民の利益につながる、よい漁具を」
廣野さんの思う気仙沼の良いところはどんなところですか?
景色が良くてご飯が美味しいところですね。
お客さんのところを回っていると、今の時期(1〜2月頃)は間引きしたワカメをお裾分けしてもらうこともありますが、乾燥ワカメと比べると触感や風味が全然違って、「ワカメってこんなに美味しんだな~」といつも感動します。
また紅葉の季節は三陸自動車道を走っているだけですごく癒されたり、夕焼けが海辺に映える景色もとても綺麗だったり。東京だとそういう自然が身近で見られる場所自体が少なくて、ちゃんと『お出かけ』しないと見られない感覚だったので、そういう自然や景色の豊かさを常々感じられるのは良いところだなと思います。
逆にまちに対する課題感や、感じている危機感は何かありますか?
隣の芝が青く見えているところもありますけど、「これだ!」っていう特徴がなかなか立てづらいところですかね。良い意味で言えば群雄割拠で、有名なフカヒレだけじゃなくてカツオ、サンマ、メカジキ、貝類、海藻類などなど。さらに漁業だけじゃなく、建設、土木の産業も大きいし、リアス式海岸の地形なので山も近くて、階上のいちご、大島のゆずなど、「これだ!」と一言で言えないまち、というのはあります。
例えば「フカヒレのまちでいきましょう」となると、それ以外の人たちが一見排除されたようになりがち。
そういうことが何となく対立になってしまうのが気仙沼の残念なところですね。それぞれが一生懸命にやっているのに、情報共有が足りないだけで対立になってしまうのは勿体ない。
個人的には、子会社でやっている『気仙沼さん』という通販サイトで、気仙沼のものは何でも取り揃えていますよ、という状態も目指していますけど、外から見たら気仙沼ってあくまでひとつなので、気仙沼の強みをちゃんと一つにまとめてプレゼンできるまちになったら良いなと。業界・年代・分野でハブになっている人同士が繋がって交流しながら、地域全体として応援し合う関係性が作れたらいいなと思います。
さきほど話が出た『気仙沼さん』について、概要や狙いを教えていただけますか?
もともと他社が運営していたサイトで、立ち上げは2002年頃。20年くらいの歴史がある通販サイトになります。2002年というと楽天さえまだまだ黎明期で、その頃から実はやっていた通販サイトというのは、なかなか先進的だったなと。気仙沼ホルモン、日本酒、サンマなど、気仙沼のものを広く取り扱っていました。
2016年3月に、もとの運営会社が立ち行かなくなってしまい、サイトも閉じることになりました。自分も存在は知っていて、良い取り組みだなと思っていたので閉じちゃうのは勿体ないと思って。たまたまその時運営していたのがJC(気仙沼青年会議所)の後輩で、個人的にネット通販の運営にも興味があったので「引き継がせてもらえないかな?」と相談させてもらって、最終的には引き継がせてもらうことになりました。
ただ、最近だとネット通販の敷居もどんどん下がっていて、メーカーさんが直接簡単にできるようになったので、ただやっているだけじゃ差別化にはならないんですよね。なので、楽天やYahoo!などの集客力のあるモールで、買う人側の行動に合わせた企画を打つなど、頑張って努力して運営していくことが必要です。
まだまだ完全に儲かっている状態ではなく、あと一歩、二歩だなというところですけど、幸か不幸かコロナがあって、巣篭もり需要からネット通販の買い物をする人も増えて来ているので、流れはうまく活かしながら、外の人と気仙沼を物でつないでいくことができたらいいんじゃないかと思ってやっています。
今後、気仙沼という地域で、アサヤはどんな存在でいたいと考えてらっしゃいますか?
社員さんによく言うのは、「アサヤは単独で存続できる会社じゃないよ」ということ。漁業者さんが魚が獲れて潤ってないと、アサヤって無用の長物なんです。漁業が時代の流れに合わせて変化するために、アンテナを張って「こんなやり方がありますよ」「他ではこういうやり方をしていますよ」と提案して、お客さんの変革をお手伝いしていくパートナーというか、二人三脚でやっていく相棒というか、そういう形になれるのが理想なのかなと思います。
漁業全般で言えば、人口は減っている、水揚げが減っているという課題はあるけれど、マクロに見れば世界的にはタンパク源が必要とされている食糧問題があって、中国では内水面の養殖がすごく盛んだし、ノルウェーのサーモンの養殖なども発展しているので、ニーズがあって成長できる産業です。かつ、いまサケやサンマの漁獲高は少なくなってきてはいるものの、三陸沖は引き続き豊かな漁場。せっかく豊かな資源があって、世の中のニーズがあって、いいポジションにいるのに、みすみす何もしないのは勿体ない。今は過渡期だと思うんです。
岩手県のサケの放流事業でたくさんサケが帰ってくるという時代から、海水温が変わって魚の動きが変わって、サケの稚魚が泳いでいたルートで食べられてしまうとか、生存に適していない水温の海域を通って死滅してしまうとか。環境の変化が直撃している現状ですが、地域としての勝機は必ずあると思うし、そこに向けた変革をお手伝いするのは、まさにアサヤがずっとやってきた得意分野なので。漁業にはまだまだ可能性があります。
東京に居た頃はつまらなそうに仕事をして、疲弊している人もたくさんいましたが、漁業者には、自信を持っていて、いきいきしていて、気前が良くてコミュニケーションも気持ちがよくて、「この人、すごく人生をエンジョイしてるんだろうな」っていう人がたくさんいます。そういう人たちが溢れる地域ってすごく素敵だよなと。漁業がちゃんと発展していくことを、引き続き支え続ける会社であり続けたいなと思います。
経営理念として「漁民の利益につながる、よい漁具を」という言葉がずっと続いているんですけれど、これは本当にぶらしたくない。アサヤは商社なので何を扱ってもいい。近隣の業者さんでは、港湾土木や陸上工事へと業態転換もあるんですけど、アサヤは漁業者に寄り添って、漁業をより良くするお手伝いをずっと続けていきたい。石にかじり付いてでも漁業を支え続けるところにこだわりたい。実際に、マクロで見ればすごく勝機はある。発展していける可能性は全然残されている。そうして、創業200年、300年と続いていける会社を目指していきたいなと思います。