アサヤ株式会社 廣野一誠さん

漁業にはまだまだ可能性がある。
創業172年の漁具屋としての誇り

廣野一誠さん

廣野一誠さん

38歳
アサヤ株式会社
宮城県気仙沼市出身、東京から移住(Uターン)、移住8年目

01. インタビュー動画

02. 「いま帰るしかない」と決めた2014年

まずはお名前、年齢、御所属を教えてください。

廣野一誠と申します。1983年生まれの38歳です。アサヤ株式会社という漁業資材の販売会社で、三陸沿岸、宮城県、岩手県の漁師さんを相手に仕事をしています。創業が1850年、172年目の会社で、私が昨年(2021年)11月に父から社長を引き継いで、7代目の社長になります。

廣野さんは高校までは気仙沼で過ごされていたんですか?

いえ、小学校は気仙沼小学校で、中学からもう外に出ています。中学と高校が大阪のPL学園で、野球はやっていなかったのですが、進学系のクラスで6年間大阪で過ごし、大学進学で東京へ出ました。

大学進学後はどのようなキャリアだったのでしょうか。

卒業後も東京で働いていて、2社経験しました。1社目が『日本IBM』という会社のコンサルティング部門にいて、お客さんの業務改善をしたり、会計・物流システムを導入したり、システムを通じて、ビジネスを良くするお手伝いを6年ほどやっていました。そのあと、先輩が製造業向けに広告代理業や営業コンサルティングをする会社を企業したので、その手伝いを4年ほど。Webサイトを作ったり、カタログを作ったり、東京ビッグサイトのような展示会場でイベント運営をしたりしていました。

気仙沼に帰ってきたのはいつ頃でしたか?

2014年12月に帰ってきたので、いま8年目になります。
もともと「いつかは帰ってこよう」と思っていて、東京で仕事をして、色々な能力を身につけて自信がついてから帰ろうと思っていました。ですが、「営業能力も付けなきゃ」「会計勉強しなきゃ」「人心掌握もできない」など、できないことを見つけていくとキリがなくて、なかなか踏ん切りが付かなかったんです。ただ、東日本大震災があって2年目、2013年の夏に帰ってきた時に、南町のあたりで瓦礫が撤去されてがらんと更地になった様子を見て「本当になにも無くなっちゃった」と。故郷が被災したから何か役に立ちたい気持ちはあったけど、「この瓦礫をどう撤去していくんだろう?」と途方にくれる時期に何も出来なかったなと。いつか役に立ちたいと思っていても、そのいつかは本当に来るのか、自分に何が出来るかは分からないけど、いま帰ることを決めるしかないな、と思い、住む場所を確保して、気仙沼に帰って、よく分からなくても家業に飛び込んでみよう、と腹が決まりました。

03. 嘉永3年創業、お客様に寄り添い続けて172年

改めてアサヤの事業内容や、地域のなかでの役割を教えてください。

アサヤは漁業資材の販売をしている会社です。創業が1850年、江戸時代末期の嘉永3年です。当時は『廣野屋』と名乗っていて、麻を取り扱っていました。漁師さんは当時、小さな和船、手作りの木の船での釣りが中心で、奥さんが麻を結って釣り糸を作り、旦那さんが釣り針を付けて漁をするスタイルでした。その麻が近辺では手に入らなかったので、内陸部や関東などへ馬車で買い付けに行き、麻を持ってきて漁師さんたちに売っていたと。お客さんは『氷屋』『箱屋』『油屋』など、一業者のことを会社名では呼ばなくて、だんだんと『廣野屋』も『麻屋』と呼ばれるようになり、そのまま『アサヤ』と名乗るようになったそうです。他にも様々な資材を扱ってきましたが、お客さんの「ああいうのないか、こういうのないか」という要望に対して様々な伝手をたどって、探してご提案するという仕事のやり方は、今もまったく変わっていません。もちろん技術の進歩はあって、現在麻は使われず、ロープや網は石油製の化学繊維になっています。船に積む油圧の漁労機械や、浜で使う養殖用の機械などで機械化が進んだり、魚を入れる万丈カゴも竹で編んでいたものがプラスチック製になったり、扱う物は変わっていますが、お客さんが求めているもの、困りごとを解決できるものを方々から探してきてお届けするのは変わっていません。

いま従業員の方は何名いらっしゃるんですか?

子会社1社、それを合わせると約90名です。拠点が気仙沼、石巻、釜石、宮古、子会社が大船渡にあるんですけど、地元の方がほとんどです。高校を出て入社して、ずっと長く勤める方が多いですね。ただ90年代後半のマグロ船減船で水産業界は長く不景気で、アサヤも御多分に洩れず余裕がなくて、しばらく採用ができませんでした。震災後は復興需要で、壊れた物、流された物を直さなきゃいけない特需の時期があったんですが、社員さんもだいぶベテランになり、40代後半〜50代、60代という構成になっていました。私が戻ってきたのが2014年なんですが、「若い人を採用しないと次の世代に技術も伝えられないよね」という話になり、2015〜16年頃から若手の採用に力を入れ出しました。全然縁もゆかりもないところから気仙沼に来る人、地元出身で高校から入社する人、親戚が近隣地域だったり、大学が東北だったりと縁があって入社する人など様々ですが、基本的には地元出身者中心で、UIJターンの若い子も増えてきた感じです。

UIJターンや若い方が会社に入ったことで、何か変化はありましたか?

「気仙沼は県外船が入船してくることから、おもてなし文化があって外に開けた街だよ」っていう話があると思うんですけど、実際そういう気質はアサヤの人たちにもあって新しい人が入社してきたら「どこから来たの?」とか「むかし部活何やってたの?」とか、自然と外から来た人に興味を持って交流することはあります。それを通して、「これって外の人から見たら当たり前じゃないんだね」という話に社内でなり、自分達が当たり前と思っていたことが意外と面白く見えるという気付きはありました。あとは、会社がもともとあった魚市場前からいまの場所(市内松川前)に移ったことであまり目立たなくなっていたので、しっかりと会社を広報していく観点から、観光にも関わるようになりました。観光では漁業資材や道具の使い方を見せる産業観光的なツアーをしているんですけど、そこでも外の方が見てた時に「すごい職人の技ですね」「いや、日常的に当たり前にやってるんだけど」というやり取りもあって。僕自身も外から来て面白いと思いったし、外の方が見ても面白いんだなと思って、『やりがい』とまでは言えないですけど、当たり前にやっていたことが「意外とすごいことやってるんだな俺たち」と思える、そんな感覚に結びついていると思います。

11月に社長に就任されたということですが、経営者として意識されていること、チャレンジしていることはありますか?

もともと持っているアサヤの良さを大事にしながら、自分はどういう貢献ができるのかをよく考えています。アサヤの社員は漁業者と長くお付き合いをしていて漁業には本当に詳しいし、人とのコミュニケーションもすごく上手だし、色んな技術も持っています。そこを自分が見習いから始めても、皆さんの劣化版にしかならないなと。外での経験が活かせることはきっと別にあるだろうと思っています。
ひとつは、外にいた人間だからこそ、会社のことを外の人が知りたい視点でお話ができるので、事業の方向性をちゃんと発信していくこと。それが何に繋がるかというと、求職者や外部有識者とやり取りをする時に、地元の感覚だけではなくて、客観的に業態・強み・弱みなどの話ができる。そうしながら、外の方に力を貸していただく関係性づくりは、自分のやるべきことかなと思っています。
もうひとつは、自分がもともと持ってはいなかったけど経営者としてやるべきこと、その一番は『意思決定』だと思います。お客さんの事情や現場のやりやすさが深く分かっていると、メリット・デメリットが見え過ぎて決められないことが出てくる。そこで「結果の責任は経営者が取るから、考えたやり方でやってみなさい」と背中を押してあげること。自分より現場を分かっている社員さんたちに、上からものを言うのではなく、経営者の取るべき責任をきっちり取って、のびのび自由にやってもらえるかどうか。節約・節制して、今のやり方でやり繰りする観点も大事だけど、漁業を取り巻く環境が変わっていくなかでは新しいチャレンジをしなきゃいけないので、新しい発想を促すことが大事だと思います。
生活者としての環境もがらっと変わってきていて、それは採用に一番出てくると思いますが、昔であれば転職は大それたことで、基本は就職して一生勤め上げるのが当然、地元にいるならずっと地元にいるのが当たり前でやってきていた。けど、テレビCMでも毎日のように転職サイトのCMが流れてきて、スマホを見ていてもすぐ求人の広告が出てきて、外の会社の情報もいっぱい入ってくるようになっている時代です。はたと「この仕事でいいのかな?」「もっといいやり方があるんじゃないかな?」とか、さらに言えば経済成長の時代ではないので、「本当に俺このままでいいのかな?」って不安に駆られやすい時代だなと思っていて。若手の人たちが、「この会社で順調に成長できているな」っていう感覚を持てたり、将来不安だけど「なんとかなりそうだな」っていう安心感を持ってもらえたりとか、社員さんの働き甲斐、働きやすさ、働く環境づくりっていうところは、色んな情報を踏まえながら、昔は「転職するなんて根性のないことだ」「長く勤めるのが当然だ」と言われていたけどそれが当然じゃなくなってきた。じゃあどういう工夫をしていくのかが大切だと思います。
アサヤでは例えば、去年12月から移住者向けの住宅手当、補助を付けはじめたんですけど、それもいろんな意見が出るところで。気仙沼で実家に暮らしている人はたしかに家賃がかからないけど、「自分は家を建ててローンの返済をしているんだけどそれは見てもらえないの?」っていうことになったり、「自分は実家から出て賃貸で暮らしているよ」とか。そういう僕らには補助は無いんですか?ってなりますよね。従業員さんたちを平等に、となると「一律出さない」というかたちになってしまうけど、会社としては外の人が入ってきてくれて定着してくれるというところに間口を開いていかないといけない。人数が必要な会社なので、地元にたまたま残ってくれている高卒の就職者だけだとなかなか回せないなというところもあります。その辺りを、会社としては不公平に一瞬見えるところかもしれないですが、広く見ればわざわざ縁もゆかりもないところからアサヤを選んで来てくれているわけで、移住者の人たちははじめの頃の家賃負担も大きい。ある程度期間は限定はしていますが、定着してくれるところまでは、リスクを取って来てくれたところに対してサポートをするという観点で補助をしています。その人にとっても、他の従業員さたちが頑張って稼いできてくれたところから前半のサポートをしてもらっているという意識を持ってもらって、いち早く成長して定着して、今度は返していこうという気持ちでやってほしいし、最初は未経験で移住すると家賃のサポートがあるけど、それ以上に発展して成長してもらって、いずれは自分の力で、生活が成り立つような給与を勝ち取ってもらいたい。そうなったら胸を張って「前半は補助をしてもらいましたけど、立派に一人前になったので、これからは会社や皆さんに貢献していきます」という階段を昇ってもらえるんじゃないかなと。
そのあたりの制度を整えたり、気仙沼の企業だと人事考課制度がなくて一律の昇給だったり、自分が成長しているのかどうかを測れる評価がなかなか無かったり、就業規則や文書関係もあまり開示されていないことが多くて。意識をしないことも多いと思うんですけど、実際「最近の働き方改革や、男性の育児休業義務化みたいな話ってうちの会社は対応してくれてるの?」など、色んなところが気になる時代だと思いますし、労働者の権利を守る、それが働き甲斐に繋がって、のびのびと生き生きと仕事をしてくれる人になって、それが会社に返ってくるということだと思うので。自分自身も東京でサラリーマンをやっていたときに、自分自身が張り合いを持ってやる、好きだからこの仕事をしているんだって思えた方が絶対いい仕事ができるし、いいパフォーマンスが出ると思うので。アサヤはもともとそういう気質の人が多くて「俺がこの漁業者さんを支えるんだ」「やりがいを持って楽しく仕事をしているんだ」っていう人が多いので、そういう社風を守りながら、いまの入り口の環境が変わっているところにどう合わせていくのかというところを、自分なりに色々と模索しながら作っていきたいなと思います。

アサヤとして従業員の方に求めていることは何でしょうか?

お客さんに喜んでもらえることが嬉しいという感覚で仕事をしてもらえるといいなと思います。アサヤは卸売が中心だけど、大きく言えば流通業。メーカーさんが造っている物を仕入れて、自社の中に塗装や機械の修理をする部門はあるけれど、基本的には何かを仕入れてきてそれに付帯する作業をする会社です。そうすると「この技術があるからうちはこれがオンリーワンで、これはうちにしか出来ません」っていうことって意外と多くなくて。お客さんとの関係性や、お客さんのことを熟知しているというオンリーワンはあるけど、ただひたすら自分の技術だけを磨いていけばその存在が担保されるという会社では無いと思っていて、社内での人と人との交わりだったり、お客さんとの交わりというのがアサヤの根幹だと思っています。人の気持ちをよく考えて動いて、そこで人に喜んでもらえた、役に立てたことが嬉しいなと思える。それがアサヤの仕事の価値、お客さんに対する価値の根幹だと思うし、仕事のなかでやりがいを感じる根幹だと思います。そういうところを楽しんでもらえる人に、ぜひ入って来てほしいと思います。

04. ぶれない理念
「漁民の利益につながる、よい漁具を」

廣野さんの思う気仙沼の良いところはどんなところですか?

まず、景色が良くてご飯が美味しいというのはあると思います。うちの会社だとお客さんのところを回ったりしていると、ちょうど今の時期(1〜2月頃)はワカメの間引きをしていて新物をお裾分けしてもらうことも結構あって。乾燥ワカメやインスタントのものにしか触れていなかった東京の頃と比べたら、「ワカメってこんなに美味しんだな」っていうことをいつも感じたりして。そういう地域ならではの食だったり、仕事でお客さんのところ行くときも、単純に紅葉の季節に三陸自動車道を走っているだけですごく綺麗で癒されるじゃないですか。海辺に行けば空が綺麗だったり、夕焼けも映えるし。東京だとそういう緑が見られる場所に行くこと自体がなかなか無かったりもするし、海に行くのもちゃんと『お出かけ』しないといけないっていう感覚だったので、そういう自然や景色の豊かさを常々感じられるのは良いところだなと思います。

逆にまちに対する課題感や、感じている危機感は何かありますか?

いっぱいあるはあるし、隣の芝が青く見えているところもあると思うんですけど…。「これだ!」っていう特徴がなかなか立てづらいというか。良い意味で言えば、産業も群雄割拠で、フカヒレだけじゃなくてカツオもあればサンマもあって、メカジキもあるし貝類もあるし海藻類もあるしっていう、漁業だけでもそうだし。漁業だけじゃなく、地域の産業で言うと建設、土木も大きなパイがあって、技術力も全国から評価されている会社さんもありますし。あとはリアス式海岸の地形なので海だけではなく山も近くて、階上地区ではいちごも獲れる、大島ではゆずも獲れますし。なかなか「これのまちです」って一言で言えないというのがあるなと思っています。
それはそれで、大分・湯布院だと『温泉』っていう一個のブランドで勝ちにいけるまちだと思いますけど、色々とある要素を組み立てて「気仙沼ってこういうまちですよ」というのをうまく外に伝えていく。それにどうしても、例えば「フカヒレのまちでいきましょう」となるとフカヒレ加工に携わっていない人たちが一見排除されてしまったような感覚になってしまって、「あれはフカヒレ屋さんだけがやってることだから」ってなりがち。そういうことが何となく対立になってしまう、そう見えてしまうのが気仙沼の残念なところだなと思いながら。でもそれは、それぞれがそれぞれのことを一生懸命にやっていて、横のつながりや情報共有とか、そういうことがやられていないがゆえに、それぞれが縦割りで独立してしまっていて「あいつは何やっているかよく分からない」っていう、知らないだけで対立になってしまっているところがある気がします。
その辺を外向けに「気仙沼はいい場所ですよ」ってPRするのであれば、観光スポークスマンみたいな人がまちぐるみでPRしていく。外から見たら気仙沼ってあくまでひとつなので、そういう部分を果たせる何かがあればいいなと思っていて。自分なりにそこは『気仙沼さん』という子会社でやっている通販サイトで、気仙沼のものは何でも取り揃えていますよと。色んな魅力があって、季節ごとに色んな美味しいものもあって、『海のまち』というイメージがあるかもしれないけれど有名なお菓子があったり、工芸品があったりとかそういう面もあるんですよと、その辺を上手にプレゼンして、外から見た気仙沼の強みをちゃんとプレゼンできるまちになったら良いなと思っていて。
それはたぶん、有力なプレイヤーたちが仲良くまとまるというか。気仙沼って世間が狭くて、一見知らない人だったんだけど、実は同級生の親戚だったとか、自分の妹の旦那さんの勤め先だったとか、3つくらい色んな繋がりを辿ると繋がっちゃうというところがあって。そうなるとあまり対立にはならなくて、知ってる人がいれば全然対立しないというところが気仙沼にはあって。その辺をうまく繋いでいく人、誰とでも仲良くしながらそれを上手にプレゼンしてくれる人がいるといいなと思っています。上の世代の人たちだとどうしても競争してきたというところもあって、外にことさらに説明しなくても「俺は俺の仕事をしっかりやっていればそれでいいんだ」ってなりがちだし、一方若い人たちはアクセスしやすい人たちのところだけでまとまりがちっていうところもあって。気仙沼をPRするときに「出てくる人たちいつも一緒だけど」ってなっちゃったり。
自分の反省で言えば『ちょいのぞき気仙沼』という観光のプログラムをやっているときに、外に外に広げたつもりではいたけれど、観光を生業としてやるところまでは、自分も含めて、本業があって+αでやっていることだからなかなかそこまでの熱量で拾っていけないなというところもあって。自分もやり切れなかったなと思うところでもあるし、通販の『気仙沼さん』も市内の全メーカーと取引したいって思い描きはしたけど、なかなか物理的には難しい。世間的には狭いけどエリア的には広いし、一社一社新しく回ればそれだけ時間も取られていき業務的に回らなくなってきちゃって。なかなか全部をコンプリートするのは難しいなと。人知れずOEMで物を造っているメーカーさんはすごく良い物を造っていても表に出ないとそもそも掘り起こせない、知られないんですよね。そこに何となく行ってみたいなと思いながら、気仙沼に戻って来た直後は純粋な興味・好奇心で「どんどん新しい人と繋がろう」という意識があったけど、やはり人と繋がっていくキャパシティって人によって限度があると思っていて。意外と3、4年くらい経ったら結構自分のなかでも把握し切れないくらいの人の繋がりになってしまってアップアップしてしまって難しいところだなと。それを1人でやろうとするとなかなかうまくいかないので、そういうことができる人たちと分野ごとに分かれてそれぞれ立っていくとか、それぞれの業界ごとにまとまって発信していく人たちが横で繋がっているとか。あとは若手のハブになってる人と違う世代の人が繋がってうまく交流が生まれるようにするとか。色んな団体が活動しているので、そういうところがうまく繋がる場があればいいなと。そういうところを通じて外から見たら、一個の地域だから完全に仲良くしなくてもいいんだけど、お互いのことは知っていて協力関係とか、「あいつのことは知らないから敵対」なんじゃなくて、なんとなくぼんやりとでも知っていて地域全体として応援し合う関係性になれればいいなと思います。
せっかくたくさんポテンシャルがあってそれぞれのなかで色んな繋がりがあって、関係人口・応援人口で言えば実はすごく数がいるはずなんだけど、なかなかそういう文脈でも束ね切れていない感じがあるので。一体感を持って外に発信していく、開示していく、繋がっていくことができればもっと良い街になるんじゃないかなと思います。

さきほど話が出た『気仙沼さん』について、概要や狙いを教えていただけますか?

もともと他社が運営していたサイトで、立ち上げは2002年頃。なので20年くらいの歴史がある通販サイトになります。2002年というと楽天もまだまだ黎明期で100〜200社くらいの時期だったと思うんですけど、その頃から実はやっていた通販サイトでなかなか先進的だったなといま思えば感じます。気仙沼のものを広く扱って、ホルモンを売ったり日本酒を売ったり、サンマをたくさん出してあげたりしていました。
2016年3月に、もとの運営会社の事情があって会社として立ち行かなくなってしまい、サイトも閉じることにすると。自分は買ったことがあったかは覚えてないけど存在は知っていて、すごく良い取り組みだなと思っていたので閉じちゃうのはすごく勿体ないと思って。たまたまその時運営していたのがJC(気仙沼青年会議所)の後輩で、パソコン系の会社をやりつつお寺の住職でもあったので、「今後サイトどうするの?」と聞いたら「サイトは閉じて、お寺の住職の仕事を中心にしながら今後は考えていきます」と話していて。サイトを閉じるのは勿体ないし、アサヤとしてもネット通販の運営にすごく興味があって「引き継ぐことってできないの?」って話をして色々と検討して。ご相談させてもらいながら最終的には合意をして、引き継がせてもらうことになりました。
色々なお店のものを扱って順調に伸ばしていきたいなと思いながらやっているんですけど、最近だとネット通販の敷居もどんどん下がっていて、メーカーさんがネット受注窓口を作ることは簡単にできるようになりました。なのでネットで買えますよ、というだけじゃ差別化にはならなくて。ネット通販ならではの運営の仕方があって、例えば楽天やYahoo!などの集客力のあるモールに出店していくことだったりとか、モールに出しているだけでも人は来ないので、ポイント消化をしたいニーズや、買い周りのイベントでポイント10倍みたいなことがあったりしますけど、買う人側の行動に合わせて『気仙沼さん』も合わせていく。そこを本格的にやろうとすると、メーカーさんが片手間で窓口だけ置いておきましたよだとなかなかやり切れないので。そういうところに対応していかないと、気仙沼の各社サイトは持っているんだけど、一社一社IDを作らないと気仙沼のものが出品できないってすごく不便なので、そこは消費者のニーズに、買い物の仕方というところで合わせていくっていうのが一つあるなと思っていて。ネット専業で仕入れて販売することで単品単品の利益はそれほど大きくないけど、だからこそたくさん扱って頑張って努力して運営していかなきゃいけないです。努力して発信していくことが気仙沼を外の人に広めることにも繋がるなと思っています。
まだまだ完全に儲かっている状態かと言われると、もうあと一歩、二歩だなというところですけど。幸か不幸かコロナがあって、巣篭もり需要も高まってネット通販の買い物をする人も増えて来ています。そっちの便利さが一気に、止むに止まれず使ったら意外と便利で、一回使い始めたから使えるようになった人も増えて来たなと思うので、それが結果的に、地域と都市部の距離を縮めるところに繋がっているのかなと。そういう流れはうまく活かしながら、外の人と気仙沼を物でつないでいくことができたらいいんじゃないかと思ってやっています。

今後、気仙沼という地域で、アサヤはどんな存在でいたいと考えてらっしゃいますか?

アサヤの社員さんによく言うのは、「アサヤってアサヤ単独で存在する会社じゃないよ」と。漁業者さんが魚が獲れて、ちゃんと潤ってないとアサヤって無用の長物で、存在価値のない会社なんです。なので漁業者さんにちゃんと潤ってもらうのが第一で、アサヤはそのために一生懸命仕事をしますっていうことで。地域が元気で成り立っていないと成り立たない会社で、人がどんどん居なくなってしまうと漁業も成り立たないし、水産加工も成り立たないし、流通も回らない。そもそも流通って物を造って付加価値をつけて売るっていうことじゃなくて、付加価値があるものをお繋ぎする中で媒介する手数料をいただくということだから、やっぱり人がいて、その地域や産業が元気じゃないと存在する価値がない会社なんです。地域が元気になっていくこと、漁業が時代の流れに合わせてちゃんと変化して世の中から必要とされる存在で在り続けることが大事かなと思います。そのためにアサヤは色んな道具を通じて、お客さんや漁業が「変わりたい」「こうなりたい」という部分をお手伝いするのがうちの仕事だと思っていて。色んな情報のアンテナを張って、「こんなやり方がありますよ」「他ではこういうやり方でやっていますよ」という部分を収集してご提案して、お客さんが変革してくことをお手伝いしていくパートナーというか、二人三脚でやっていく相棒というか、そういう形がベストなのかなと思います。
漁業全般で言えば、人口は減っている、水揚げが減っているというのはあるはあるけれど、すごくマクロに見れば世界的にはタンパク源が必要とされている食糧問題があって。タンパク源として魚も必要とされているので、内水面の養殖が中国ではすごく盛んだったりもするし、ノルウェーのサーモンの養殖など発展はしている産業なので、広く見ればニーズはあるし成長ができる。かつ、三陸沿岸って三陸沖という豊かな漁場を目の前にしていて、いまサケやサンマの漁獲高は少なくなってはきているものの、引き続き豊かな漁場であることには変わりないので。せっかく豊かな資源があって、世の中のニーズがあって、いい場所にポジションしているのに、みすみす何もしないなんてことはないと思っていて。いまの漁業や水産加工のやり方は、先行投資が必要だけど環境ががらっと変わってしまうと順応できずに倒産してしまう。今はそんな過渡期にいるんだと思うんです。岩手県のサケの放流事業からたくさんサケが帰ってくるという時代から、海水温が変わって魚の動きが変わって、サケの稚魚が泳いでいたルートに稚魚を食べちゃう魚がきたとか。稚魚が動いて成長していく中で、たまたま生存していくのに適していない水温のところを通って死滅してしまうとか。そういう色んな環境の変化がいま直撃していて、そこに対して海の様子を全部魚にセンサーをつけて調べるわけにはいかないけど、環境に対して適応していく術って何か必ずあるだろうし、そのうえで豊かな漁場があって、世界的にはタンパク源が求められているので、地域としての勝機は必ずあると思うし、そこに向けて変わっていくのをお手伝いするのは、まさにアサヤがずっとやってきた得意分野だと思うので。そこに向けて踏ん張ってやっていきたいかなと思います。
漁業にはまだまだ可能性があります。個人的に思うのは、東京に居た頃はつまらなそうに仕事をしている人がたくさんいて、疲弊している人もたくさんいて。もちろんいきいき仕事をしている人もいたけどそうじゃない人もいた。漁業者には、中には大変だなと思いながらやってる人もいると思いますけど、自信を持っていていきいきしていて、気前が良くてコミュニケーションも気持ちがよくて。「この人すごく楽しく人生エンジョイしてるんだろうな」っていうお客さんをたくさん目にしています。そういう人たちが溢れる地域ってすごく素敵だよなと思っているので、漁業がちゃんと発展していくことを、引き続き支え続ける会社であり続けたいなと思います。
経営理念として「漁民の利益につながる、よい漁具を」という言葉がずっと続いているんですけれど、これは本当にぶらしたくないなと思っています。アサヤは業態で言えば商社なので何を扱ったってよくて。例えば近隣の業者さんであれば、港湾土木の方へシフトしていったり、陸上の工事向けにシフトしていったりと色んな業態転換があるんですけど、アサヤは漁業者に寄り添って、漁業をより良くするためにお手伝いをし続けることはずっと続けていきたいなと思っていて。一緒にかじり付いてでもそこは続けていきたい。漁業を支え続けるところはちゃんとこだわっていきたいです。実際に、マクロで見ればすごく勝機はある。発展していける可能性は全然残されていると思うので、いまの可能性をつ繋いでいく、そして、創業200年、300年と続いていける会社を目指していきたいなと思います。

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